夜灯 小説 Novel
メロウトワイライト

BLメイン、ダークファンタジー・シリアス・R18作品があります。

夜灯バナー


残虐描写あり 流血表現あり

メロウトワイライト


主人もんぺ傷心の吸血鬼執事×親譲りの無邪気さを振りまく実は策士な主人

名づけ親の主にさえも、心を開かなかった傷心の吸血鬼は、忘れ形見の少年と過ごす日々の中で、心を通わせていくが──

黒桐屋こくとうや春弥はるや
 治秋はるあきの息子。ナギといつも一緒にいたくて一生懸命な少年。
 
ナギ
 黒桐屋こくとうや家に仕える執事。吸血鬼。

黒桐屋こくとうや治秋はるあき
 春弥はるやの父で、ナギの前主人。故人。



 春弥はるや様の朝は慌ただしい。私は眠ることのできない人外の身であるため、春弥はるや様のお休みの間にすべての支度をあらかじめ整えておくのだが。
 ベッドの隣に失礼しながら、春弥はるや様が寝入ってしまうまで見守り、春弥はるや様が目を覚ますときにはおそばに控えていなければならない。さもなくば、この広い屋敷中を駆け回って、私の姿を探しに行ってしまうのだ。
 布団の中で春弥はるや様が動く。ピョコンっと顔が飛び出し、パチリと目が開いた。まぶたをとろんとさせており、眠たそうではあるが、まぶたを懸命に押し上げている。
 つぶらな瞳がこちらをじっと見つめていた。
「ナギだぁ、ふぁああ」
 背伸びをして目覚められる。幼い主はいつも二度寝はしなかった。朝から興味津々のご様子で飛び起きて、バタバタと足音を立てながら、必死に私について回る。遊びたい盛りといったご様子である。
 まずはお召し物を替えて差し上げようと、ひと声かけてから失礼しようとすると、本日は珍しく渋られた。代わりに、ボタンをご自分で外しはじめられるが、最後の一つがなかなか外せないご様子だった。
「これだけとれない……」
 空調や室温などは人間である春弥はるや様に合わせて適温に保つようにしている。だが、衣類に包まれていない、小さなお体を外気にさらし続けるのは大変よろしくない。
 熱心にボタンを外しにかかられ、気がそぞろで肩がはだけて、衣類が腕のところまで落ちてしまっている。いつまでもその半脱ぎの下着姿のままでは、お体に差し障ると思い、つい手が伸びた。
「こちらはまた練習しましょう」
 春弥はるや様の小さな指の上から、固く留まっていたボタンを一緒に外す。しばらくの間、指をぎゅっと握り返されており、どうしたものかと困惑していたが、突然パッと指が解放される。春弥はるや様は飛び上がって、シャツを脱ぎ捨てた。
「やったぁ! ありがとう、ナギ。だいすき!」
 よろこび跳ねる主がバンザイをした瞬間に、ワンピースを被せて着せる。回りながら、ふわりと広がる裾を楽しそうに目で追っていた。
 袖がノースリーブであるため、カーディガンを差し出すと、春弥はるや様はするりと腕を通される。
 スヤスヤと眠っていた天使は、舞い降りて、小さな花嫁のようなお姿になった。
「ナギ、どう?」
「よくお似合いですよ」
 ふさわしい以外の言葉が出てくることはない。主は何をお召しになっても、美しく可憐だった。
 春弥はるや様の父君が生前、縫われた衣類はどれも少女様であったが、華奢で肌の色が白い春弥はるや様を引き立てるにぴったりの代物ばかりである。
「ナギのご飯おいしい!」
 お褒めにあずかり、思わずほころびそうになる表情を引き締める。春弥はるや様に悟られないように、極力牙を出さないよう、表情に気をつけているからだ。マスクなど身につけて口元を覆ってしまえばいいのだが、そのような服装は、主に対して無礼というものだ。
 よろこんで食事をお召しになる姿がとても愛らしい。
 私はというと、何も食べないことを変に思われないよう、濃いめに淹れたコーヒーだけを口にしている。
 穏やかで心が安らぐひとときだ。血を飲まなくても、日の当たらないこの屋敷の中にいれば、飢えることも必要以上に消耗することもない。春弥はるや様のため、食材を調達しに外へ出るのは日が落ちてからでいいからだ。
 春弥はるや様には申し訳ないが、遊びに付き合うことができるのは、このお屋敷の中だけだ。絶対に外に出てはいけないと言いつけてある。日中は私のそばから離れることがなければ、春弥はるや様はそう遠くには行かないので、安心できる。
 ただ、もう少し成長されたら、外の世界も教えて差し上げなければならない。本来なら、幼少期から陽の光を浴びせなくてはならないのだが。
 前主人──黒桐屋こくとうや治秋はるあき様は、『吸血鬼は血を定期的に摂取すれば、太陽に当たっても、苦しむことはない』のだとおっしゃっていた。私はついぞ実践せぬまま、与えられるままにどこぞで仕入れたのやら分からぬ血を飢えるすんでのところで飲むを繰り返し、このお屋敷の一番暗い部屋で無気力にさいなまれ、無為に時を過ごしただけだった。
 血は与えられるだけで、自分から進んで口にしたことがないため、どうやって調達すればいいのか分からない。血さえ飲めば、春弥はるや様を陽の昇るお外に連れ出せる。私の思いは揺れた。
 春弥はるや様が遊び疲れて、いつもより早くお眠りになった夜。私は戸締まりをして、屋敷の外に出た。闇に慣れた私の目には、どこもかしこも明るく見えてしまう。こうも夜目が利きすぎてしまうと、日中、出かけられないのもうなずける。
 屋敷を取り囲む森の一つへ、私は足を向けた。前主人は『困ったら森へ行きなさい』と私に告げていたからだ。森にはなんでもあるのだと。
 治秋はるあき様は事あるごとに、私に『森に行かないか』と声をかけられた。本当に私と森へ行きたかったのだろうか。それとも、私を屋敷から外へ連れ出すための口実だったのか。
 サビついた臭いが鼻をかすめる。このニオイには覚えがある。吸い寄せられるように、ニオイの元へ足が赴く。
 木立に囲まれた場所で、黒ずんだ跡を見つけた。小柄な黒い影が地面に横たわっている。知らない生き物だが、人間ではなさそうだ。
 私は地面に広がった黒い染みに手を伸ばした。手についたそれは、確かに血だった。舐めると覚えのある味がする。目の前が暗くなっていく心地がした。横たわる亡きがらに、弔いもせずに手をつけるなんて、不道徳だ。
 胸がギリギリと締め上げられる苦しみを覚えた。遠くで何かの声がした気がする。もし血を吸う人外がいると知られればまずい。春弥はるや様に危害が及ぶかもしれない。何があったとしても私が春弥はるや様のおそばを離れることは考えられない。
 心を決め、鋭利な爪と牙を剥き出しにしたそのときだった。
「なぎ、なぎー!」
 心臓が跳ね上がった。あれは間違いない。春弥はるや様のお声だ。
 汚れた手のことなど構いもせずに駆け出した。早く戻らなければ、春弥はるや様は遠くへ行ってしまう。
「春弥はるや様!」
 その名を呼べば、私はまだ戻れる気がしていた。
 汚れてしまった口で、清く愛しい名を呼ぶのは、大罪に等しい。だが、構うことなどできない。
「なぎっ」
 小さな体が私の方へ飛びこんできた。愛すべき主をためらうことなく抱きとめる。お体が冷えてしまっていた。
「申し訳ありません、春弥はるや様」
「ぼく、ナギとずっといっしょがいいの」
 伸び上がって春弥はるや様は、私の唇に口づけを──。その瞬間、電撃が走ったように、頭の中の黒いざわめきが散った。
 夜風が甘く感じられ、目の前の存在しか目に入らない。小さな主人がそばいる、そのよろこびで胸がいっぱいになる。
「こうすると、ナギといっしょにいられるって書いてあった、の……」
 ガクンとひざを落とし、くずおれる春弥はるや様を抱きかかえた。春弥はるや様は散々探し回って疲れたのだろう。もう眠ってしまわれていた。なんて華奢で幼気ない主なのだろう。
 私もあなた様の生涯に寄り添いたい。立場も種族も違えど、気持ちは互いに変わらないのだ。
 屋敷の扉を閉めた。春弥はるや様を片手に抱え、まず手をきよめる。抱きすくめた際に汚してしまったお召し物は、手早く新しい物に替えて、寝室へと向かう。
 寝室には見慣れぬ本が落ちていた。春弥はるや様がどこからか持ってこられたのだろうか。
 布団を掛けて春弥はるや様を包みこみ、胸に抱きながら、その本を勝手にというのは気が引けたが、おそるおそる拝読してみた。
 内容は目を疑うものだった。私についてたくさんの事柄が書き綴られていた。折り目正しいその字は、忘れもしない、薄明かりの中、残されるメモで見ていた、春弥はるや様の亡き父君──治秋はるあき様のものだった。
『ナギといっしょにいたいときは、くちとくちをくっつけるとよい。これは、〝ちゅー〟という──』
 挿し絵付きでなんてことを認めているのかと思わず本を投げそうになった。
 この先に起こるであろう出来事を予測するため、罪悪感でチリチリと胸を痛めながらサラサラと一通りめくってみれば、最後の何十ページかは『ここから先は春弥はるやだけが読めます。十八歳になったら読むんだよ』と釘が刺してあるので手を止めた。
「なぎと……いっしょがいい……んにゃんにゃ」
 春弥はるや様が何かをおっしゃった。唇に指先をかけ、唇で食むようにして口の中に指をねじ入れようとされていた。
 指をくわえるのは春弥はるや様の癖だが、くわえた指を噛むとびっくりして目を覚ましてしまわれるので、そっと小さな指を引き寄せて、私の手でつなぎとめる。
 『いっしょ』というお言葉が額面通り、『命ある限りそばに居たい』であればいいのにと思ってしまう。もし、その願いの真意が『ナギと同じ時間を過ごしたい』に変わってしまったら、私はどうすればいいのだろうか。
 同じ時間を過ごしているのに、同じように歳をとらない。独り残される私を憐れに思い、春弥はるや様のお世話を申しつけて逝ってしまわれた治秋はるあき様のように、春弥はるや様も私のことを独り残したくないとお考えになるに違いない。
 今、春弥はるや様に迫られたなら、隣に誰かがいるよろこびを知ってしまった私は、こちらの世界に引きずりこんでしまうだろう。
 ナギと名をくださった前主にさえも、心を開くことができなかった私は、彼の忘れ形見に深く心を奪われている。
 春弥はるや様のすべてが愛しい。
 そのときがくるまで、治秋はるあき様にお返しできなかった愛を春弥はるや様に注ごう。今はまだ、春弥はるや様の温もりを感じながら、幸せなまどろみに浸っていたい。

 我が亡き主の忘れ形見、黒桐屋こくとうや春弥はるや様は日々すくすくと成長されていった。前当主であり、私の名づけ親である治秋はるあき様が残した〝入れ知恵〟により、まっすぐとはいかない心の成長を遂げていく。
「今日、ナギがボクとデートする日!」
 朝お目覚めになって、本日の朝食はいかがいたしましょうかと聞く間もなく、春弥はるや様が本日の予定を口にされた。主がそうおっしゃるのであれば、危険なことでないかぎり、すべて従うものである。
「今から着替えるから後ろ向いてて」
 春弥はるや様はもうお着替えもご自分でこなすことができるお歳になっていた。ご自分でできると言うので、お部屋を退出しようとしたら泣かれたため、言いつけ通り、背を向けるに留めた。
 「終わった。見て、ナギ」と主がおっしゃるので、振り向けばそれはもう、いつ見ても可憐でおいたわしい春弥はるや様のお姿があった。
 前当主である治秋はるあき様が用意されたお召しものは、歯を日頃から出さないよう気をつけているのに歯を噛めしめるほど、どれもよくお似合いでうらめしい。
「デートの時間は夜の……」
「十六時以降の外出は、十八歳になってからです。そうお約束いたしましたよ」
 春弥はるや様は指折り数えて、足りないと肩を落とされる。朝食にいたしましょうと促せば、うんとうなずかれ、「お昼にデートね」と気を取り直されたご様子だった。
 デートと言っても、春弥はるや様も私も色恋沙汰には疎く、二人してどうしたらよいか分からない。春弥はるや様のお好きなように寄り添って、お部屋に上がらせていただき、隣に並んで二人でお昼を食べるぐらいだ。
 ひとくち、ふたくち。春弥はるや様のお口は小さいので、飽きないうちに食べきれるように小さく切り分けておく。
 食器の使い方もとうに慣れていらっしゃるが、食事で疲れさせるのはよろしくないというのが私の考えだ。お食事は楽しんでいただきたい。
 何より春弥はるや様が美味しそうに召し上がるお姿に、この上ない幸福を感じるのだ。
「ナギ、はい。どーぞ」
「それは春弥はるや様の分でございますよ」
「ボクがナギにあげたいからいーの」
 主のお食事をいただくのは気が引けるが、くださると言うのなら拒むわけにはいかない。おそるおそる口を近づけ、牙を出さないよう、唇で食んだ。噛みしめ、味わい、礼を述べると春弥はるや様はなぜか固まってしまっていた。
「春弥はるや様? どうかされましたか?」
 まさか。うっかり牙を見られてしまったのでは。怖がらせてしまったのではないか。緊張で張りつめ、主を黙って見つめていると、急に春弥はるや様がほおをふくらませた。
「口にくっつけてちゅーしていいのは、ボクだけ!」
 ムッとしながらイスの上で立ち上がり伸び上がるので、危ないと抱き上げれば、首に手を回される。
 引かれるがままに、頭を下げれば春弥はるや様の唇と私のそれが重なる。
 私は驚いて目を見開いたままだったが、春弥はるや様はぎゅっと目をつむって、私の唇を食んだ。
 ふにっとした、一瞬の唇の触れ合いだった。私の全身に電撃が走る。今度は私が固まってしまった。
 腕の中でぱちりと目を開けた春弥はるや様は満足そうに微笑んで、「ナギ、すき」と紡がれた。それから春弥はるや様を抱き上げたまま、「はい」と返事をしたきり、私はあまりの衝撃にしばらく動けずにいた。
 それから早めの夕食を終えると、眠りに入られる前にねだられるいつもの習慣がある。
「ナギ、このご本を読んで」
 『トワイライト』というこの絵本が春弥はるや様は大好きだ。父君の治秋はるあき様が残した秘密のノートに記されていたのか、作者不詳のその御本を引っ張り出してきて、読んでとせがむ。
 私ははっきり言ってしまえば、この本が好きではなかった。トワイライトと名づけられた者、彼は皮肉にも光を浴びることができない男だ。彼は光に愛された少年と親交を持ち、愛を知って、自分にとっての光を見つける、そういう物語。
 古めかしく作ってあり、作者不詳だがおそらく治秋はるあき様お手製のものに違いない。完全に亡き父君に仕組まれた話で、なおかつ息子である春弥はるや様が気に入ってしまわれたので質が悪かった。
「トワイライトはね、光がこわかっただけなの」
 毎回、春弥はるや様の感想はさまざまだったが、本日はお休み前にもかかわらず、しっかりとした口調で述べられた。
「だから、光もトワイライトがこわかったの。わるいことも、いいことも、思いはね、思い合うと通じるんだよ」
 心をひどく揺さぶられるようなお言葉だった。私も認めてしまえば、春弥はるや様をこの上なく愛してお慕いしている。春弥はるや様も同じように「一緒にいたい」「好き」と私への思いを日々口にされる。
 互いに思い合い、通じ合っているはずだ。ならばこの一抹の不安はなんだ。私という生き物の正体が邪魔をするのか。
 春弥はるや様がもし、私が人とは違う時間を生きる吸血鬼だと知ってしまったら、私は春弥はるや様の思いにどう応えたらいい。私は彼とどう生きたいのだろうか。
 愛おしく思う気持ちは日々ふくらみ、もう私という存在にとって、欠かすことができなくなってしまっている。決めなければ。
 その日が来るまでにはと考えるのに、春弥はるや様と過ごす日々がどうしようもなく幸せで満たされて心地よく、せめてお屋敷にいる間だけは浸っていたく、暗い未来の予想を描きたくはなかったのだ。

 春弥はるや様は私が愚かにも血を求めて夜の森へ向かった日から、何かと私の身を案じるようになった。
 出かける私を引き留めようと、夜にあれをしたい、これをしたいと言うようになってしまわれた。
 私との約束があるため、春弥はるや様は言いつけを決して破らなかったが、お昼に衝撃のデートを終えた今宵は、いつもと引き留め方が違った。
「ねえ、ナギ。夜のお外は危ないよ」
 玄関の前までこっそりついていらっしゃる春弥はるや様は珍しい。春弥はるや様は私の夜のお出かけが食事だと勘違いしており、いつもはベッドの上で、「夜ご飯、ボクもいつかはナギとお外とでご一緒する」と私の口調を真似てみたり、「寒いからお外で食べたら凍っちゃうよ」などと心配されたりするのだが。
 主が声をかけてきたというのに、このまま黙って外へは行けないので、扉にかけた手を引いてゆっくりと振り返る。
「夜風はお体に触りますよ、春弥はるや様」
 恭しく身を屈め、頭を下げる。お辞儀をすればそれだけで春弥はるや様は分かってくださり、いつも屋敷のお部屋へと踵を返される。
「ごめんね、引き留めて。ボクのために夜、町に出てること、知ってるの」
「春弥はるや様、ご心配をおかけして申し訳ありません。お気づかい痛み入ります。すぐ戻りますのでどうか、安心してお休みください」
 いつからだろうか。夜のお出かけが食事目的ではないと気づいたのは。
 春弥はるや様のためのおつかいだと知っていて、眠ったふりをして私を送り出していたのだろう。
「ボクも十八になったら、ナギと一緒におつかいするからね」
「ええ。お約束していますからね」
 春弥はるや様はぎゅっと抱きつかれてから、「気をつけてね」とうれしそうに廊下へと戻られていった。
 なぜか胸にざわめきが広がる。もちろん、春弥はるや様のためのおつかいはこなしてくるが、それだけでは済まないからだろうか。渦巻くわだかまりの正体を私は掴めずにいた。

 夕暮れを見つめる春弥はるや様のお顔は美しく儚げだ。陽が傾きはじめるこの刻、春弥はるや様はお屋敷に戻らねばならならない。この門限は過保護すぎる治秋はるあき様の言いつけだった。
 だが門限が破られたことは一度もない。子煩悩な父親の姿もない。
 思い描いた夕暮れの主の姿はすべて私の夢想であって、春弥はるや様がお外へ出てしまったのは、私を追って夜、外へ飛び出したそのたった一度きりだ。
 それからは屋敷の外へ出られたことがなかった。一度だけの夜の外出は私のせいなので、春弥はるや様は亡きお父様の言いつけを破ったことにはならない。
 夕闇へ踏み出す度に、春弥はるや様とお外で過ごす幻想が頭を渦巻き、胸がひどく痛む。春弥はるや様がもし外の世界へ足を踏み出されたなら、この上ない幸せと好奇心で胸をいっぱいにして、風を感じながら愛らしく舞うだろう。
 恥も道徳心もかなぐり捨てて、死骸の血を啜れば春弥はるや様とともに、外を日の下を歩ける。だが意地を張ってでも、幸福へ連れ出したくない理由が私にはある。
 外は自由にあふれているのと同時に、悪に汚れていた。
 私は春弥はるや様が十八になられる前に、この悪に始末をつけようと機会をうかがっている。願わくば私の思いが通じて心を入れ替えろと、今日も今日とて、顔も合わせたくない男の元へ通う。
 この男は黒桐屋こくとうやの屋敷の周りをうろつき、侵入を試みようとしていた不届き者の一人である。
「治秋はるあきも趣味が悪い。誰とできた子かも知らないガキを屋敷に置いとくばかりか、当主の座を明けわたすなど、とうてい受け入れられない話だ」
 暖かく優しい幻想に刃が突き刺さり、春弥はるや様以外が永遠の闇に塗り潰される。今なんと言ったか。
 しかし、誰がなんと言おうと、春弥はるや様が黒桐屋こくとうや家の現当主であり続けることに変わりはない。故人である治秋はるあき様の唯一の実子であることも、覆ることはない。
「治秋はるあき様の遺言は絶対だ。春弥はるや様が当主であることは変わりえない!」
「まだ未成年だろ、あのガキ」
 男の顔がニタリと笑い歪む。汚らわしい闇の気配が満ちる。
「俺が後見人、〝ナギ〟だ」
 そうか。こいつは、最初からそういうつもりで近づいたのだ。そうして春弥はるや様を傀儡かいらいにするつもりなのだ。
「偽のナギさんよお、あんたは一生、ガキのために働かないとなぁ」
 「ころ、シテヤル……」と小さく吐く。「ん? 聞こえねぇーな」「ニセモノ、詐欺師」と下卑げぴわらいが次々にさざめく。
「貴様らはユルサナイ」
 視界が暗転した。景色が果てしない夜に染まっていく。
 春弥はるや様……。そのたった一つの、儚き光だけは離さないようにと、目を逸らさずに、視界が明滅する痛みに耐え続けた。

 あの淡き光の元へ、『すぐ戻ります』との約束を果たせないと悟った日から、言いようのない思いが胸の内にふくらむばかりだ。思い起こすのは春弥はるや様の愛しいお姿ばかり。
 暗い檻の中、正体を暴かれた私は囚われている。血を与えられない私は、檻を壊して汚れた人間どもをねじ伏せる力など出せず、春弥はるや様の身を案じる心と貶めた者への恨みだけが日に日に募っていく。
「春弥はるや様は生きているのだろうな?」
「お前、何回、聞くんだよ。ガキが死んじゃあ、俺の立場がなくなんだよ。分かったか?」
 薄汚い笑みを浮かべるこの人間の正体は亡き当主、黒桐屋こくとうや治秋はるあき様の弟にあたる男であった。以前から執拗に黒桐屋こくとうやの屋敷周辺をうろついていた輩で、取引により引き下がらせ、話し合いを続けていたが、交渉をすり合わせるつもりなど毛頭なかったのだろう。
 この男は実のところ、治秋はるあき様によって理不尽に屋敷を追放されたと恨んでおり、黒桐屋こくとうや家を掌中に収めようと目論んでいたようだ。
 すべてを知ったのは、私がこうして捕らえられたあとだ。治秋はるあき様は息子である春弥はるや様のこと以外、家族について一度も話されたことはなく、存在すらも私は知らなかった。
「お前には仕事がある。ガキを生かしたきゃ、言われたとおりにするんだな」
 仕事とは暗殺だった。男の気に入らない者たちを夜な夜な襲う。ただし、血を流す殺し方は許されない。言いつけられた時限までに戻らなければ、春弥はるや様の命はないと言うので速やかに殺し、暗闇の巣に戻る。
 春弥はるや様の未来のために、私自身が悪に身をやつさぬよう、どれだけの時間をかけて、話し合いで解決しようとしてきたことか。こうもあっさりと自制心と葛藤を捨てて、殺しに手を染めてしまうとは。
 苦痛に歪む日々だけがいたずらに過ぎる。だが己の罪と汚れのすべてから目を逸らしはしない。元より満足に眠れぬ私は、目を閉じることをやめた。

 懐かしい匂いがした。悪事に手を染めた私を叱りに治秋はるあき様が寄越したイタズラ風かと思ったが、いつものネズミだった。
 手にかけた人間から頂戴した少しばかりの食料を手慰みに与えていたネズミが、紙切れをくわえてきた。施しに対する礼などいらないのだが労いにと、固くなったパンをちぎってやれば、紙切れを冷たい床に落として食べはじめる。こうやって春弥はるや様のお食事を切り分けて食べやすくしていた日々を思い出す。
 食事は久しく口にしていない。食事は春弥はるや様との幸せに満ちた時間であったから、暗く沈んだ心のままで、温かな幸福を踏みにじりたくはなかった。
 人を殺しても、もう何も感じないというのに、春弥はるや様と過ごした日々で感じた幸せだけはどうしても手放したくない。
 抜け出そうと思えばそのネズミを今すぐにでも食らって、春弥はるや様を除くすべての人間を葬って、迎えに行けばいい。だが、そうまでして凶暴に走って戻った自分は、また春弥はるや様のおそばで何事もなかったかのように日々を享受し、微笑んでいることができるだろうか。
 手放したくない日々を胸に抱えながら、もう戻れないと否定する。殺した人間から最後の晩餐の少しを奪うのは、幸せを壊した痛みを自分に刻むためだ。お前はもう、過去の幸せを忘れられぬまま、未来の幸せを奪う苦痛に切り刻まれて生き恥をさらすしかないのだと。
 かさりと足元に紙切れがあたる。ネズミはそれを押しやったらどこかの穴へ消えていった。
 郷愁がふわりふわりと香る。沈んだ気持ちのまま、拾い上げればその紙に見覚えがあり、曇っていた視界は一気に晴れた。
『ボクのだいすきなトワイライト』
 にじむ文字でそう書かれていた。ハリがあるが薄いその紙は生前、治秋はるあき様が使われていたものだった。そして、紙に付けられた文字の跡から、覚えのあるサビついた臭いがした。
 思わず投げ捨ててしまった。これは春弥はるや様から送られた文で間違いないはずなのに。
 サビに混じって、甘く、魅惑的な匂いがしているのだ。喉から手が出るほど、それが欲しくてたまらなくなる。常に腹を空かせている私には猛毒に等しかった。
 私はその紙切れを捨てられない。私から一番遠くの角に追いやったが、日々それは増えて、匂いが濃くなっていき、私を惑わすばかりだった。

 真新しい紙が隅へ積まれていく度に、春弥はるや様と積み重ねた日々が思い出となって浮かんでくる。
 あなたという夜明けが待ち遠しかった。
 目を覚まして欲しいと思いながら、目にすることが叶わぬ、薄明に焦がれ、陽を閉ざした寝室で、夜のおつかいが終われば、おそばに控え、ただじっと手を握っていた日々。
 端に追いやったあの紙切れを見ていて、どうも、胸が痛むと思っていたら、治秋はるあき様から授かった本のページを破って、春弥はるや様が口にしてしまわれたことがあったからだ。日が暮れた頃に私が外へ出かけることに気づきはじめ、春弥はるや様はどうにか気を引きたくてやってしまったようだった。
 私はとても気が動転してしまった。そんな私を見て春弥はるや様も驚いてしまい、二人で泣いてしまった苦い思い出がある。
 それからよく言い聞かせて訳を話し、春弥はるや様が十八になったら一緒に夜の町に出ましょうと約束を取りつけた。
 あなたの豊かな表情、言動の数々に心奪われてばかりの日々だった。夕暮れの庭に遊びに来る鳥の話をうっかり口にしてしまったとき、春弥はるや様はまたほおをふくらませて、ぎゅうと抱きついてこられたなあ。今思えば妬いてしまわれたのだろう。あながち間違いではない。
 夕闇にさえも溶けこまない、美しい体毛をもった鳥だったのだ。可憐で美しい春弥はるや様のように思えて、目に留めてしまった。
 庭に咲く大輪の花々には目もくれず、小さな草花をつまんで口にくわえていたさまと、春弥はるや様が小さなお口で懸命に食事をとられていた姿が重なった。愛らしいなどとその鳥に気が移ったのは一瞬であったのに。
 私にはやはり、あなたしかいないのだ。春弥はるや様。私の記憶の中で舞い踊る淡き光。ナギと呼ぶ、おいたわしい声。
 ふと頭に浮かぶ、いつかの記憶の片りん。ないはずの小さな光がひらひらと舞いながら、視界を横切るさまをいつか見た気がする。
 春弥はるや様と出会う前、暗い部屋に閉じこもって、明かりという明かりから目を逸らしてきた私からするとあり得ない話だが、見たことは覚えている。
 その光をお屋敷の中のどこで見たのか、思い出せぬまま、隅に追いやられた紙片たちは影を被って、崩れかけのレンガ片と違わぬ塊と化していった。

 開け放たれた窓に、光に消えそうなほど毛の白い小鳥がとまっている。
「ついに成人か。絶好の機会だ、春弥はるやは始末して、成り代わらせよう」
「何も口にしないが、欲しいものぐらい、最後に聞いてやるのはどうだ?」
「さすがは我が息子。情けが深い。お前は次期当主にふさわしいぞ」
 屋敷の主の座を強奪しようとしている男に、あごで使われた者が階上へ行ったのち、すぐに戻ってきた。
「花が欲しいそうです」
「いつもさしてあるだろうに。代わり映えのない。まぁ、いい。庭で摘んでこい」
 言いつけに従い、庭に出た男を窓際から小鳥はじっと見ている。男が花を摘んで、屋敷へ上がり、階上へ行ってしまうと、小鳥はすぐに飛び去って浮上した。
 閉めきられた窓の外。わずかにカーテンが開いており、ふわりと舞い上がった小鳥のクリクリとした目が窓の向こうをのぞいていた。
 摘み取られた細い茎の花を骨ばった指が愛でている。華奢な少女様の痩せ細った少年はベッドから立ち上がった。
 おぼつかない足取りで屈んで、ベッドの下に潜ってしまう。引っ張り出してきた分厚い本を開いて、小さくページを二切れほど破った。そうして折った紙切れの一つに、小さなその花を閉じてしまった。
 それから彼は花瓶に活けてある瑞々しく張りのある花を抜きとって、斜めに切られた茎の先端を腕に強く当てて引いた。
 花弁の一つをもぎ取り、淡い花を赤く染め、もう一枚の紙切れに挟んで、窓際へやってきた。
「トワイライト、トワイライト。このお花はいつものおすそ分けだよ」
 小鳥は初めて少年のさえずりを聞いた。
 窓のすき間から差し出された紙切れが開く。挟まれる花はいつも小鳥のものだった。小鳥はよろこんでついばむ。
 小鳥は食べ終えてもすぐには去らなかった。さえずりの続きを待つように、小鳥の目がまだ少年を見ていた。
「トワイライト、トワイライト。どうかこのお手紙、届けてね。さようなら」
 もう一枚の紙切れを小鳥は受け取った。ごちそうである花弁が挟まれていたが、小鳥はもうお腹がいっぱいで満足で、夕の薄明が迫る空へ羽ばたき、いつもの方へ飛んでいった。

 いつの間にか私の意識は微睡みに落ちていた。眠れるはずなどないのに。
 静かで冷たい硬質の檻。ぬくもりに包まれる暖かく柔らかいベッドの上に、これほど焦がれるとは思いもしなかった。
 カサリという音がした。またいつものネズミだろう。律儀にも毎回、足元まで運んでくる。今日は食事はないから、あげるものがない。食事がない日は、殺しがない日だ。ネズミも今日は食事の匂いがしないと分かっているはずだ。
 妙なことに今日に限って、ネズミは去らない。じっと私を見ているようだ。その紙片を開けろと言わんばかりに。
 いつものように、その紙片からは鉄サビと甘い誘惑の香りがする。欲しくてたまらないが、すんでのところで留まっており、まだ一度も口にしたことがない。
 春弥はるや様がどうにかして届けてくださるのだから、一度だけは開く。そうしたらまた暗がりの隅に放ってしまおう。
 トワイライト、すきという文字は毎度必ず書かれていた。ペンなども取り上げられてしまったのだろうから、どうにかして春弥はるや様がご自身を傷つけながら綴っているのだと思うと、胸が張り裂けそうだ。
 小さな紙片を開く。そこには──
 赤黒く染まった花びらが挟まれていた。どうして、こんな。
 視界に光が横切る。暗がりにあるはずのない、淡き光の浮遊。それは小さな羽を羽ばたかせる蝶だった。
 思い出した。それを見た日、前当主、黒桐屋こくとうや治秋はるあき様が亡くなられたのだった。
 血が騒いだ。気づけば部屋の隅に築いた紙片の塊がなくなっていた。残るは、新しく届いたこのお手紙だけだ。
 もう覚えてしてしまった、春弥はるや様の味を。
 迷いなど捨て去った。春弥はるや様からいただいたすべてを食らい尽くして、私はネズミのあとをついて、この檻を出た。
 何者でもいい。早く会えるのならどんな形になってもいい。私は人の形を捨てた。ありとあらゆる生き物になって、檻の割れ目をかいくぐって、ようやく自分の意志で外へ出た。

 力を失った腕から、泣く春弥はるや様を託され、この小さな光は地上に戻されねばと思い立った日の思いがよみがえる。光を求め、声を上げて泣く小さな命を私のような闇を生きるべき者が捕らえていてよいものではないと。
 私はこの光に導かれるまま、暗い部屋を出た。この光だけは絶やしてはならないと、赤子の春弥はるや様のお世話に毎日必死だった。日々成長されていく、主の忘れ形見の春弥はるや様。地上の陽を浴びて、微笑むお姿を見ることが叶ったのならどんなに、よかったか。
「ナギ、ナギー!」
 忘れもしない。春弥はるや様のお声。私を呼ぶ声。私はそれだけで、人の形に戻れる。
 呼べるのか、この罪にまみれた体をもって、言葉を発したそばから純真無垢な春弥はるや様をけがしてはしまわないだろうか。
 背中を押された。お前に託したのだぞと。前当主の幻影に。
「はるや、さま……」
「ナギ」
 夕暮れが迫る、枯れ木ばかりの雑木林で、私は白い天使を見た。私が焦がれてやまない淡い光。
「ボク、約束、守った、よ」
 春弥はるや様の声に張りがない。消えてしまいそうだ。見れば手足がずっとわなないている。微笑んではいるが、今にも泣き出しそうで、ほおがこけて、大変やつれたお姿になっていた。
 春弥はるや様が震えながら、手を差し出される。
「春弥はるや様……!」
 駆けた。よろめきながら春弥はるや様の元へ。わずかな距離だった。あともう少しで手が届く。
 触れようとした手前で、鮮血が舞った。白い首筋から止めどなく噴き出し続けるそれは、なんだ、どうして。
 力を失ったお体が地に伏す。私のひざが落ちた。
「私の役目はこれで終わりです」
 私に似せたような物言いをする、知らぬ男の声がする。
「奴隷同然だった私を人間として見てくれた、わずかばかりの礼です」
 開いた傷口から止めどなく、鮮血があふれ続ける。
「最期に会わせるべきだったのか、悩みましたが」
 春弥はるや様の愛らしい口からあかがこぼれていく。虚ろな目が私を捕らえて離さない。
 じきに夜が来る。闇がすべてを覆ってしまう。忍び寄る夜の影が、冷えゆく愛しい人を連れていってしまう。
 誰にも。知らぬあの男にさえも。この光だけ奪わせない。私だけのトワイライト。尽きるとしても、灯火を摘みとるのは、私の手でなければならないのだ。
 この浅ましく醜い欲が募るのは、長く心の内に押し止めていた干からびた愛ゆえなのか。
 唇に牙を立てる。私自身の血の味がする。こんな生臭いものを愛と呼べるのか。私は震えながら、その汚れた愛を春弥はるや様のなかへ流しこんだ。
 甘くて、瑞々しくて、心地よい味へと変わる。春弥はるや様と一つになって溶け合っている心地さえしてくる。
 陶酔に浸ったまま、名残惜しく唇を離せば、春弥はるや様の目はすでに閉じられていて、安らかなお顔に戻られていた。
 裂かれた傷口はもう塞がっている。お眠りになった春弥はるや様のお身体を清め、流れ出てしまった春弥はるや様のすべてを啜った。
 もうこの地にはいられない。春弥はるや様と黒桐屋こくとうや家のお屋敷へ戻ることもできない。春弥はるや様を抱えて立ち上がる。
 夕闇の中、雑木林を歩く私はひどく満ち足りていた。前当主と、そしてその息子である春弥はるや様と過ごしたお屋敷での日々を永遠に失うことになるというのに。
 この腕に抱える重みが私の永遠となる。暗く長い夜が明ければそのまぶたを開けて、目を覚まされる。そして、私をとらえて離さない。ナギと愛らしいお声で私を呼ぶのだ。
 これは運命だったのだろうか。謀らずとも私と春弥はるや様の、共にありたいと思う道が重なった。こちらの世界へ引きずりこんでしまった、詫びる気持ちなどもう起こらない。
 私とこれから生をともにしていく春弥はるや様を胸に強く抱く。おいたわしい、私だけのトワイライト。至上のよろこびで私の心は満たされていた。

 夜が更けていく。最後に黒桐屋こくとうや家のお屋敷を目に焼きつけてから去ろうと舞い戻ってみれば、目を疑う光景がそこには広がっていた。
 敷地の城壁のすべてに荊が這い、門も荊によって固く閉ざされていた。
 私のような吸血鬼を地下に匿っていた家柄だ。正式な手続きも経ずに、黒桐屋こくとうや家を乗っ取ろうとすれば、こうなってしまうのも、あり得る話だ。
 そうだな。敷地にある森の生き物たちも、屋敷への侵入者を許さなかったな。私が追い返さなければ、かみ殺しに躍り出ていただろう。
 夜は生き物の様相が一変する。だから私は戸締まりを欠かさなかったのだが。
 戸締まりはしっかりとしてあるだろうか。今さら心配など無用だろうが。
 足元でチュウと鳴く声がした。あのネズミだった。
「君のおかげだ。ありがとう」
 何もお礼を渡せないのが心苦しい。このネズミが春弥はるや様の手紙を運んできてくれなければ、私は永遠にあの牢獄で飼い殺しにされていたというのに。
 歩き出せば、ネズミもついてくる。止まれば、ネズミも止まって見上げてくる。
「君も私たちについてくるか?」
 目の前に突然、淡い光の羽がふわりと舞い降りてきた。黒桐屋こくとうや家の庭でよく見かけた、あの鳥のものだ。
 白い小鳥は春弥はるや様の周りを数度、飛び回ったあと、ネズミの方へ下りていった。
「君たち、仲がいいのだな」
 ネズミは顔を上げて立ち上がり、小鳥の方へ手を伸ばそうと必死だ。小鳥はなかなかネズミの手の届くところまで下りていかない。
「君。贈り物がなければ、気を引けないのではないだろうか」
 見かねて手を出したくなってしまった。春弥はるや様を片手にしかと抱きかかえ、空いた手で、敷地の外に咲いていて無事だった草花を摘む。小さな花だ。途端に小鳥は私の手に飛んできて花びらをつまんでいった。
「君もやってみるといいよ」
 もう一度、草花を摘み取って、今度はネズミの方へ差し出した。ネズミは草花を前足でたぐり寄せて、必死になって掴もうとしている。
「君たちならきっと大丈夫。種族が違えども、手を取り合えるよ」
 私は歩き出した。夜かどこかも分からない方へ。彼らはもうついてこなかった。

 伝承によれば、吸血鬼とは、よみがえった死体で、陽の光を浴びればたちまちに焼かれてしまい、聖なるものを忌避し、鏡にその姿が映らず、夜な夜な人間を襲い、血を啜り、眷属けんぞくを増やしていく醜悪な化け物とされている。
 醜い化け物、私はまさにその通りだ。だが、私がすでに死んでいる者であるとするなら、なぜこうも温かいのだろうか。腕に抱く愛しい主もまた、温もりを持ち、トクンと心臓が脈打っており、生きている鼓動を感じるのだ。
 陽光は目につらいとは思ったが、私はカーテン越しに夜明けを目にすることは何度もあった。だが、たちどころに焼きつくされてしまったことなど一切ないから、今日までこうして生きている。
 さらに言うなれば、今私たちが身を落ち着けているここは、廃れた教会だった。朽ちてはいないが、ツタがはびこり、扉はガタついており、人が使っている形跡がまるで感じられなかった。
 しかし、教会内には、礼拝道具がそのまま放置されており、十字架まで活けてある。つまり、聖なるものに満ちている場所に私たち、吸血鬼はいるのだ。
 鏡に映らないと言うなら、私は毎日、春弥はるや様に見苦しくないように鏡の前で身だしなみを整えていたのはどう説明すればよいのか。私が伝え聞いた伝承とやらも、もしかしたら治秋はるあき様が作りこんだ物語なのかもしれない。
 ただ一点、私が血を糧とする生き物であること、それだけが吸血鬼たる証拠であると言えよう。血がなければ活動を制限される。日の下を満足に歩けない。いざとなったときの力も湧かぬ。
 あれほどまでに強い自制心を保って、愛しい主を私と同じ存在にしてたくはなかったというのに。今はどんな目覚めであったとしても、春弥はるや様が目を開けてくださるのが待ち遠しくてたまらない。
 陽が昇りはじめ、辺りがパキパキと乾いた音を立てはじめる。腕の中の春弥はるや様もふるりと体を震わせた。
 待ち望んだ夜明けだ。私が焦がれ続けた、トワイライト。
「春弥はるや様。お目覚めでしょうか」
 教会にふさわしい天使が腕の中で微笑んでいる。
「ナギだぁ」
 春弥はるや様が柔く笑う。なんて幸福なときだろう。視界がにじんで、鼻から苦いものが伝った。
「おはよう、ナギ」
「おはよう、ございます。春弥はるや様」
 よろこびを胸いっぱいに噛みしめて、春弥はるや様をかき抱く。春弥はるや様も手を回されて、応えてくださった。
「お腹、すいたよ、ナギ」
「そうですね。食事にいたしましょう」
 心配させまいといつものように笑い返したが、どう説明をして差し上げればよいのだろうか、迷った。
「わたくしと同じものを……春弥はるや様もお召し上がりになるのですがお口に合うかどうか」
 ぱちくりと目を瞬かせ、春弥はるや様は興味津々に私を見上げられる。
「ナギと同じもの、ボクも食べたい」
 春弥はるや様は当然のようにそう口にされる。私はしばしためらったが、主を空腹のまま待たせる訳にはいかない。
「口移しで失礼いたします、春弥はるや様」
 私は意を決して、自身の腕に牙を立てる。極力、出血が見えないよう、細心の注意を払いながら、啜る。
 待ち望む春弥はるや様の口に、自身の腕から吸い上げた血を口移しで流しこむ。
「ンッ、ふっ……」
 こぼれないようにと舌を絡める。春弥はるや様の喉が鳴る。
 口を離せば銀糸が伝い、ぷつんと途切れた。
「チョコレートみたいで、ドキドキする。これがナギのお食事?」
「はい」
「じゃあどうぞ」
 思いもかけず、腕を差し出される。春弥はるや様の柔肌に、牙を突き立てるのもためらうし、腕に噛みつくのは手づかみで食べるようで何だか行儀が悪い。
 しかし、主がくださると言うのなら、断るのも失礼だ。「ありがたくいただきます」とことわり、ほっそりした腕を両手で支え、肌を舌で濡らしてから、つぷりと牙を刺した。
「ぁ……ふ、ぁん」
 春弥はるや様が声を上げられる。居たたまれない気持ちになり、ゆっくりと牙を抜けば、ほおを紅潮させた春弥はるや様が目を潤ませ、私を見ていた。
「美味しい? ナギ」
 春弥はるや様の血は舌舐めずりをしてしまうほど、美味だった。
「とても美味しいです」
 春弥はるや様を抱きしめ、愛しい温もりに浸った。
 それから、二人で戯れを楽しんでいたら、夕刻が迫るほど、時が過ぎていた。
「ボクね、ずっと夕刻が待ち遠しかった」
 なぜだろうか。屋敷で暮らしていた頃、夕刻を過ぎれば、門限があり、春弥はるや様はいつもさみしい思いをしていたはずだ。私がおつかいで屋敷を離れてしまい、私が戻るまで、春弥はるや様はいつもひとりきりでベッドに入られていたに違いないのに。
「いつかナギと夜にデートしたくて。あと何回、夕刻を過ぎたら、夜、ナギと町に出られるのかなって」
 ずっと、いつか叶えたい願いを思って、夕刻を待ち望まれていたのだろうか。私の胸が締めつけられる。
「少しだけ、行きましょうか。春弥はるや様」
「やった!」
 少しと言わずに、もういくらでも夜の町に繰り出せるというのに。私の臆病さはまるで、過保護なまでに様々な思いを残した父君である、治秋はるあき様のように慎重さを欠かない。
 私は立ち上がり、春弥はるや様をそっと腕から下ろした。
 一礼して腰を屈め、春弥はるや様に手を差し伸べる。春弥はるや様が手を重ね、私の手をとった。
「ボクだけのトワイライト。もう光を怖がらないでね。ボクはどんなときも、ナギと一緒にいるから」
 春弥はるや様がふわりと笑う。その笑顔は私にとって光だ。
 私が外へ連れ出すというのに、私が導かれた気分になる。
 私だけのトワイライト。あなたという、淡き薄明が途方もない夜の向こうから、私を見つめて離さない。
 やがて夜の音が伝う、夕暮れの薄明の中、あなたは軽やかに舞い踊る。外の空気を存分に胸に吸いこみ、空を焼きつくす残光をその小さな背中にたたえて。
 あなたは初めての光の前で踊る。私という影が夕焼けに消されないよう、あなたはその身をもって、私にとって初めての強き光を和らげてくれる。
 なんて心地のよい薄明だろうか。強ばった心が溶かされていく。私は春弥はるや様を通して、暮れゆく光を見つめた。
 光と目が合う。すぐに夜に沈んでいく光。消えていったそばから、再会に焦がれた。
 私はあなたと朝を迎えられる夜明けがもう待ち遠しい。
 夜の中で微笑む春弥はるや様を抱きしめる。私と永遠をともにする、私だけのトワイライト。
 あなたがまとう、その淡き光が、怖がりな私をとらえていつまでも離さない。


「メロウトワイライト」

著者:内山 優
公開日:2023年12月16日

この物語はフィクションです。
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